かつて島の生活を支えた山口商店と、男木島の昔話。 余韻ラジオ

男木島の港から路地を少しあがったところにある「山口商店」は、長きにわたって男木島の人々の暮らしを支えてきた場所です。山口やすよさんは、結婚を機に地元大阪から夫の故郷である男木島に移り、パワフルに商店を切り盛りしてきました。島に来たばかりのころの驚きや、約1000人もの人が暮らしていたという当時の島の様子……今はもう店を閉めましたが、建物やレトロな品物の数々とともに、商店にはたくさんの記憶が残っています。やすよさんの優しい語り口にのせて、男木島と山口商店のおもいでを巡る旅に出掛けましょう。 お話に登場したスポットはしまれびマップの黄色いピンからご覧ください。

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    島暮らしのアナウンサー

    まな

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    男木島在住

    山口 恭代さん

大阪の少女が、導かれるようにして男木島に出会い、約60年。
島の暮らしを支えた商店での日々や当時の島の思い出を聞く。

何でもそろう島の商店

男木港から細い路地を入ってすぐの場所にある「山口商店」。かつて島の人たちの暮らしを支えてきたこの店には、営業を終えてもなお、建物やレトロな品物の数々とともにたくさんの思い出が残っています。商店の歴史や当時の男木島の様子について、長きにわたって店を切り盛りしてきた山口恭代(やまぐちやすよ)さんに話を聞きました。

「当時は野菜でしょ、それからお豆腐とかこんにゃくとか肉類とかなんでも。文房具関係や日用雑貨も売っていて。その頃は小学校、中学校で子どもたちが100人ぐらいいたのかな」

店の始まりは、終戦直後までさかのぼります。
「夫のおじいさんが男木島灯台の灯台守だったの。だから船を扱っていて、高松に行くついでに島の人に頼まれたお砂糖なんかを一緒に買ってきてあげてね。商店のある場所はもともとは戦争中は防空壕にしていた所だったんだけど、いつの間にかここが島の物資の拠点になっていったそうなんです」

男木島灯台

大阪から島へ――驚きの連続だった新生活

やすよさんが商店を切り盛りし始めたのは、20代のころ。もともとは大阪の出身で、結婚を機に夫の実家がある男木島へ移り住み、夫の親戚から店を引き継ぎました。
店には港で釣れたばかりの大きなメバルや生きたままのタコが持ち込まれ、次々とさばいていく……見るもの聞くものすべてが別世界だったといいます。

「島に外から人が移り住むっていうのは珍しい時代だったんでしょうね。『私の時にはもっと苦労していたよ』という島外出身のおばあちゃんはいたけれど、私は久しぶりだったんですよね。家族を世話しながらお店の仕入れや書類上のことやらいろいろあったから、知り合いも誰もいない場所だけど、寂しいと思う暇がなくて。みんな一生懸命で、朝目が覚めたときからもう仕事が待っているから、あれしなきゃこれしなきゃと慌ただしくて」

導かれるようにして出会った島

実は、やすよさんが初めて男木島の存在を知ったのは、大阪に住んでいた少女のころ。旅行で四国へ訪れたときのことでした。
「高松市の屋島(やしま)の山上から瀬戸内海を眺めていたら、島が見えてね。『あの小さい島に人が住んでいるのか!』って。それが男木島だったんです」

その時はまだ自分が島へ行くとは思いもしなかったやすよさんでしたが、大阪で働いていたころ、導かれるようにして男木島出身の男性と出会います。

「当時、学校に通って簿記2級まで取って経理の仕事をしていて、その途中で巡り会ったのが夫でね。偶然、父の友人の部下だったの。おもしろい人だったのよ、浮世離れしていてね。年齢を感じさせない発想の豊かな人だった。偶然の神に引き寄せられたんだろうかね」

こうして結婚を機に、かつて山上から眺めた男木島へ移り住むことになったのです。

屋島山上から望む女木島(左)と男木島(右)

島の暮らしを支える日々

男木島で商店を引き継いだやすよさんは仕事に奮闘し、経理だけでなく、新たにガスの取り扱いに関する資格や調理師免許も取得しました。
「一輪車にガスを乗せて、急こう配の細い坂道でふらふらしながらも、重たいのを転がらないように工夫して運んでね。みんなが忙しい時には自分が行けば、資格を持っているから安心して取り付けできるでしょ。持って行って取り付けたり、番号控えたりね」

男木島の細く入り組んだ路地

持ち前のパワフルさでさまざまな仕事をこなすようになりましたが、初めはできないことも多かったといいます。

「お醤油でもお酒でも、一升瓶が重たかったの。最初は10本は持てないから6本入りの箱を持って。そしたらお手伝いの女性たちに『力がない』って言われるのが悔しくてね。生魚を開いたりもできないし、できないことばっかりだったのよ。だけど、仕入れをしたり値段を付けたり、お帳面を付けるのは経理をしていたからできて。裏を建て増しして事務所を作って……と数年ごとにお店を広げていったの。島で若い人たちが楽しむところがなかったから調理師免許を取って、大根やジャガイモで冬場におでんをしたらみんな喜んだりね」

現在も店で大切に保管しているレトログッズ

大阪時代に培った経理の知識も生かしながら、一つひとつできることを増やし、島の暮らしを支える存在になっていったやすよさん。その目には、時代の移り変わりとともに変化してきた男木島の風景が焼き付いています。

男木島の昔話

やすよさんが男木島にやってきたばかりのころの人口は800人ほどで、さらに前の戦後は約1200人もの人が暮らしていたといいます。戦火を逃れた人や疎開でやってきた人なども含めて多くの人が生活を営み、当時は山の上までびっしりと民家や畑があったそうです。

「昔の写真を見たら緑の部分が少なくて、島のてっぺんだけが緑。私が来たときには除虫菊を植えていて、まだ虫よけがなかったころだから、お花を摘んで乾燥させて売ったり。タバコの葉も作って乾燥させていたりね。みんな色々な仕事をなさってた」

現在の男木島

また、島で牛を育てて農繁期に香川の農家へ貸し出し、その対価として貴重な米を得ていたという話も聞いたといいます。

「牛たちは島を渡ったら荷物運びなんかをするから、すごくしんどかったみたい。だから、男木島ではもう働かせないで遊ばせていたのよね。島で牛に餌をやったり草刈りに行ったりするのが子どもの役目だったみたい。牛を運ぶ船もあったらしいのよ。
牛は田植えの頃に雇われて、終えるとお米を何俵か背負って帰ってきて。男木島の人にとってはそれがすごくありがたかったのね、お米がとれないから。坂で山が低いから、お水が不自由なのよ。だからお米は牛が持ってきてくれるのがありがたくて。
今80歳ぐらいの人は、小学生の頃に牛がいたみたい。私が男木島に来たときは牛はいなかったけれど、豚はいたよ。飼っている人が何軒かいて、夕べに豚が生まれてひと晩徹夜だったっていう話を聞いてね。それで母豚が子豚を育てるのを見に行ったこともある。かわいかったよ」

さらに、男木島灯台へ向かう山道ではヒメボタルが舞い、幻想的な景色を作り出していたそうです。
「夫のいとこたちと、灯台に続く道から山へ上がったところを毎晩歩いて。今の灯台や水仙郷よりも手前に道が整備されていたのよ。夜9時頃から登っていくと、11時頃にヒメボタルがきれいに光って下から上がってくるの。いとこたちが男木のヒメボタルについて書いた本も作ってね。灯台に行く道に電柱ができて明るくなったらホタルが少なくなったけれど、暗がりの時にはたくさんいたよ」

現在の冬の男木島灯台周辺

導かれるようにして男木島に出会い、気づけば60年以上。やすよさんは、毎日を一生懸命に過ごしながら、明るくパワフルに島の人たちの暮らしを支えてきました。商店は役目を終えましたが、その歴史や思い出、そしてやすよさんのまぶしい笑顔は、今も輝き続けています。
お話に登場したスポットはしまれびマップからご覧ください。

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